映画『ブルーピリオド』ネタバレレビュー|眞栄田郷敦主演!才能なしの高校生が東京藝術大学を目指すまでを徹底解説!

公開中の映画「ブルーピリオド」を鑑賞。
女性漫画家の「山口つばさ」の同名漫画が原作となっている。
月刊アフタヌーンで連載中で、一巻から六巻まであたりを映画化しているとのこと。

映画内では「ブルーピリオド」というセリフは出てこないが、どうやら画家のパブロ・ピカソの初期の作品群が書かれた「青の時代」を指しているようだ。

ピカソの青の時代はピカソが鬱病を患っていた時期であり、孤独で不安な青春時代という意味をタイトルに込めているのだろう。

主演は千葉真一の次男である眞栄田 郷敦(まえだ ごうどん)。

本作は眞栄田 郷敦が演じる高校生の矢口 八虎(やぐち やとら)が、絵画に目覚め、東京藝術大学を受験するまでの物語。

ネタバレあらすじは次の通り。

<ネタバレ>
高校2年生の矢口 八虎は日頃から不良仲間とともに渋谷で朝まで遊び歩くも、成績は良好。

矢口は人生を上手く生きている自信があったが、どこか生きることに実感を持てずにいた。

ある日、偶然にも美術部の森まる(桜田ひより)が描いた油絵を見て矢口は心惹かれる。

矢口は森に色について質問すると、森は世界が青く見えるなら、リンゴも青く描くのが絵画だと言われる。

丁度、美術の授業で「自分の好きな風景」という課題が出されていたところ、矢口は前々から好きだった朝の渋谷を青で描く。

その絵が周囲から褒められ、想像以上に感動してしまう矢口。
そこから矢口は密かに絵を描き始める。

ある日、矢口は美術の先生(薬師丸ひろ子)に今からでも美大に入れるか聞くと、次のように答える。

「わかりません!でも、好きなことをする努力家は最強なんですよ!」

その言葉に心を打たれ、矢口の心臓の鼓動は早まっていく。

ところが美大は学費が高額。
裕福な家庭ではない矢口にとって、目指すは国立の東京藝術大学の一択。

その狭き門を突破するために矢口は美術部に入部して描いて描いて描きまくる。

更に矢口は美術の予備校に通い始める。
そこで矢口は高橋 世田介(板垣李光人)という天才に出会う。

自分が全くの凡才であることに気づき落ち込むが、「天才と見分けがつかなくなるまでやればいい」と奮起する。

矢口は自分の才能に不安を覚えつつも、「努力と戦略」で天才に近づき、遂に東京芸大の試験の日を迎えていく。

<ネタバレここまで>

秀才の矢口が何故に絵を描き始めたのか。
それは矢口が自分の中に適性を見つけたからである。
決して絵に才能があると思ったからではない。

人はそれぞれに「好き」と思うことは様々である。
それはその人ごとに「適性」が違うからだ。

この適性を見つけることが、青春時代の最重要事項と言っても過言ではない。

ところが自分の適性を見つけたからといって、それに人生をかけるには勇気がいる。

映画の中の矢口も絵画の世界に飛び込むことにためらいを感じる。

それでも矢口は勇気を振り絞って自分の適性に従ったからこそ「実感」のある人生を手に入れることができた。

「美術系の大学など卒業しても意味がない」という母の気持ちを物語に入れたところも面白い。

大学とは学ぶことが「目的」であって、いい会社に就職するための「手段」ではない。
将来の就職のために大学に進学する人間と、学ぶためだけに大学に通う人間。

どちらが強いか。

それは劇中で美術の先生が言った「好きなことをする努力家は最強」というセリフに答えが出ている。

矢口が劇中で徐々に成長する姿も絶妙に描かれていて、冷静に考えるとノンリアルな東京芸大現役合格も不自然な感じはせず、それどころか合格の知らせを聞いたときに観客は思わず涙してしまう。

剣道や茶道では「守破離」という言葉がある。

「守」は、師や流派の教え、型、技を忠実に守り、確実に身につける段階。
「破」は、他の師や流派の教えについても考え、良いものを取り入れ、心技を発展させる段階。
「離」は、一つの流派から離れ、独自の新しいものを生み出し確立させる段階。

劇中の矢口の成長は「守破離」を見事に体現していたと思う。

私は映画鑑賞後、原作漫画を1巻だけ読んだが、映画版が漫画版に勝るとも劣らない仕上がりになっていたと断言できる。

原作の山口先生も納得の完成度になっていると思う。

この映画を観て思い出したのが、傑作漫画「あしたのジョー」の名シーン。

幼なじみで主人公の矢吹丈に思いを寄せる紀子が、ボクシングをやり続ける動機を聞く。

「矢吹君は寂しくないの?同じ年頃の若者が、町に海に山に青春を謳歌しているというのに・・・食べたいものも食べず、飲みたいものも飲まず、惨めだわ、悲惨だわ。
青春と呼ぶにはあまりにも暗すぎるわ。」

すると丈は次のように答える。

「俺は負い目や義理だけでボクシングをやってきたんじゃないんだ。

ボクシングが好きだからやってきたんだ。

紀ちゃんの言う青春を謳歌するってこととはちょいと違うかもしれないが、俺は俺なりに今まで燃えるような充実感を何度も味わってきたよ、血だらけのリングの上でさ。

ブスブスとそこらにある見てくれだけの不完全燃焼とはわけが違う。
ほんの瞬間にせよ、眩しいほどに真っ赤に燃え上がるんだ。」

このシーンは「あしたのジョー」という漫画の本質が表現されている。

丈がいう「ブスブスとそこらにある見てくれだけの不完全燃焼」という言葉は、劇中で矢口が不良仲間と深夜に酒を飲みながらサッカーを見て騒ぐシーンを想起させる。

「あしたのジョー」を読んだ方は知っているかと思うが、矢吹丈は決してチャンピオンを目指してボクシングをしていたわけではない。

自分より強いと思うボクサーとリングの上で戦いたい。
それだけが丈のボクシングをやる動機であり、チャンピオンになるための手段としてボクシングをやっているわけではない。

矢口が予備校で天才「高橋 世田介」と出会ったように、丈も自分より才能が勝る力石、カルロス、ホセに戦いを挑み、敗れていくのである。

絵を描くことが生きることになった矢口とボクシングをすることが生きることであった矢吹丈が私の中で重なってしまったのは間違いではないだろう。

そして本作「ブルーピリオド」で矢口が絵を描くシーンはボクシングのごとく観客に興奮を覚えさせる。

人生で最も大事なことは自分の適性を見つけることであり、その適性に従ったときの苦しみと、その苦しみからくる生きる実感の重要性を本作は訴えかける。

是非、学生に観てもらいたい作品である。

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