映画「ドクター・デスの遺産」から考える安楽死の是非

ドクターデス横

2020年11月公開の映画「ドクター・デスの遺産」を観ました。
中山七里さんの同名の推理小説が原作です。

主演は綾野剛さんと北川景子さん。
その他、木村佳乃さんや、柄本明さんなども出演しています。
監督は深川栄洋さん。

連続安楽死事件を追う二人の刑事の物語。
ある日、病気で父を亡くした少年が電話で警察に「お父さんは殺された。」と通報します。

事件を調べていくと、全ての被害者は病気による終末期にあり、犯人(ドクター・デス)は、本人と本人の家族から同意を得た上で安楽死させていました。
つまり被害者のいない事件だったのです。
通報した少年を除いては。


安楽死の是非は簡単な問題ではありません。

それでも私は、体の自由が利かなくなったら自然死するより少し前に自死を選びたいと考えています。

回りに迷惑をかけて「病院死」するよりは自決の道を選びたい。
本当に実行できるかは別として、私が自然死より自殺を選ぶ理由を書いていきたいと思います。

意志のある死

安楽死

人間は自分の意志で生まれてきたわけではありません。
時代も、親も、国も、性別も、顔の美醜も選ぶ権利はありません。
この世界に投げ出された存在が人間なのです。

しかし、死ぬことは自分の意志で行えます。
動物が自殺するかどうかは知りませんが、近い行動があっても、それは意志ではなく本能でしょう。
自死を選ぶということは人間特有の行動だと言えます。

人間に生まれた以上、人間らしく死にたいと思うことは自然なことです。
自分が自分らしくあるうちに死んでしまいたい。

もちろん決して他人に押し付けてはならない思想であることも確かです。

それでも私は、そうありたいと思うのです。

残された者の思い

残された少年

自死を選ぶにあたっては、当然、残された家族、友人の思いも考えなければなりません。

映画において、安楽死させた家族は「苦しみから解放させた」と思っています。

しかし、安楽死した本人は「家族を苦しみから解放させたい」と思って自死を選んだのかもしれません。

本当はもう少し生きたかった。
しかし、これ以上自分のせいで家族を苦しめたくない。

そうだとしたなら、残された者たちが、もしかしたら自分のために死んだのではないかと思い、苦しむ可能性もあります。

そうならないためにも、生前の元気なときから「自分は動けなくなる前に死ぬ」と言っておく必要があります。

もちろん、人は動けなくなると、即、人間としての価値がなくなるわけではありません。

存在しているだけで価値があることも忘れてはいけません。
そのことは映画の中で警察に通報した少年が教えてくれます。

少年にとっては、例え動けなくなっても父は存在するだけで価値があったのです。
だからこそ、少年は「殺された」と警察に通報したのでした。

残された者たちは苦しむ必要はありません。
何故ならば、いずれ残された者たちも死ぬからです。

「散る桜 残る桜も 散る桜」

これは江戸時代の曹洞宗の僧侶で、歌人でもあった良寛和尚の辞世の句と言われている歌です。
今、咲き誇っている桜も、いずれは必ず散るのです。

残された者たちは苦しむことなく、故人に敬意と感謝を示せばいいのです。

死の恐怖の克服

恐怖

死とは究極の恐怖の源泉であり、そう簡単に自死の境地には至ることはできません。
今から自分の死を想像し、決意し、頭の中で繰り返し繰り返し死について考え続ける必要があります。

私も、もうすぐ50代。
今から死の練習を積んでいきたい。

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