世界から父性が消えた原因とは? 映画の中の父性 樺沢紫苑著「父滅の刃」

父滅の刃

精神科医であり作家の樺沢紫苑先生が「父滅の刃(ふめつのやいば)」という本を上梓されました。
「父性消滅に抗う刃」という意味とのことです。

樺沢先生によると1970年代に父性は敗北し、以降消滅していったといいます。
これは日本だけでなく世界的にも同じで、この時期から「父親探し」をテーマとした映画が増え、更には父性が消滅した映画も流行り始めているとのことです。

その考察をまとめたものが今回出版された「父滅の刃」。

父性・母性を一言で表すと、父性とは「厳しさ」であり、母性とは「優しさ」
観念的な言葉でいうと父性は「切る」で、母性は「包む」と樺沢先生は表現されています。

具体的には、

  • 規範を示している
  • 尊敬、信頼されている
  • 「凄い」「そうなりたい」と思われている
  • ビジョン、理念、方向性を示している

を父性として定義されています。

父性敗北の映画「エクソシスト」

十字架

本書によると1970年代以前は、西部劇など、父性的キャラクターが登場した映画が多かったものの、時代が進むに連れ、そういった役柄は消え、代わりに「父親探し」のストーリーが多くなったとされます。

「父親『探し』」は「父親『殺し』」として表現されることも多く、立ちはだかり、乗り越えるべき存在としての父親を人々は希求しているからこそ映画としてヒットし、受け入れられていると樺沢先生は分析しています。

先生の分析で特に興味深いのは、時代の転換点として、ホラー映画「エクソシスト」を挙げているところです。
「エクソシスト」は、悪魔に取り憑かれた幼い少女に対し、二人の神父が悪魔祓いを行う映画です。

少女の家庭には父親が不在で、最後まで登場しません。
悪魔祓いは何とか成功するも、二人の神父は死んでしまいます。

神父は英語で「father」。
神は「the father」。
映画「エクソシスト」は父性を殺し、神を殺した「キリスト教の敗北」を宣言しているとしています。

「エクソシスト」は単なるホラーではなく、父性・神の存在の否定という現代を象徴した映画になっているからこそヒットしたと樺沢先生は説明されます。

父性を覚醒せよ!

ここ数年にヒットした映画「天気の子」「万引き家族」は、父性不在とともに、各人の中にある父性を目覚めさせ、それを力にして生き抜いていく様を表現していると説明されています。

「天気の子」は家出した少年と家族を失い弟と二人暮らしの少女の物語。
この二人が父性を発揮し、生き抜くところが時代とマッチしており、ヒットにつながったとしています。

「万引き家族」は、祖母・父母・子供たちで構成された家族が万引きをしながら暮らすという奇妙な物語です。
映画の後半、実はこの家族は全く血のつながらない他人同士であることが分かっていき、最後には悪事がバレて離散します。

この疑似家族の父親(リリー・フランキー)は、チャランポランで父性がありません。
最も父性を発揮したのは離散の切っ掛けを作った少年の祥太でした。
つまり「天気の子」と同じく「万引き家族」においても父性不在の時代の生き方を示していると樺沢先生はいいます。

映画だけでなく漫画「鬼滅の刃」にも言及されています。
「鬼滅の刃」は主役の炭治郎が単独で戦場を生き抜くシーンがほとんどで、これもまた父性を発揮して成長していく物語であり、そこが大ヒットにつながったとしています。

「父滅の刃」では、様々な映画・アニメ・漫画を年代順に、父性・母性の観点から分析されています。
「そうだったのか!」と目からウロコの話しが盛りだくさんです。

本書を読むと「父性・母性」という新たなモノサシが手に入り、映画をより一層深く見ることができるようになるかと思います。

映画好きな人はもちろんのこと、映画を観ない人も、これを読めば間違いなく映画が観たくなりますので、あらゆる人におすすめです。

どうして父性は消えたのか

駐車場

「父滅の刃」では、何故、父性が消滅したかには、ほとんど言及されていません。
私なりに父性消滅の要因について、いくつか仮説を立ててみました。

(1)家庭と仕事の分離(産業構造の変化)

1960年代から1970年代にかけて、産業構造は劇的に変化し、第一次産業(農林水産業)が激減します。
農林水産業は家庭生活と密接しており、1960年代以前の家族はお父さんの働く姿を日々見ていたわけです。

一方、現代では、第一次産業に従事する人は5%以下だそうです。
今のお父さんたちは、毎朝会社に出かけ、夜遅く帰宅します。

子供たちは父親の職名は知っていても、実際に何をやっているかは分からなくなっているのです。
家族は休みの日にダラダラ過ごしているお父さんしか見ないので、当然、尊敬される対象とはなりません。

1991年にミュージシャンの忌野清志郎が「パパの歌」を発表しています。
CMソングだったので、覚えている方も多いかと思います。

『家の中ではトドみたいでさ
ゴロゴロしててアクビして
ときどきプゥーっとやらかして
新聞見ながらビール飲む

だけどよ!
昼間のパパは ちょっと違う!
昼間のパパは 光っている!
昼間のパパは いい汗かいてる!
昼間のパパは 男だぜ!』

昼間のパパを家族に見せることができたなら、少しは父性が復活するかもしれません。
テレワークが普及すれば、少しは変わるのでしょうか。

(2)地域コミュニティ消失による父性の代替者の喪失

ほとんどのお父さんが勤め人となり、家庭の日常から消えてしまいましたが、その代わりになる人がいれば問題ありません。

祖父でも、いとこのお兄さんでも、近所のオジサンでもいい。

ところが、核家族化は進み、親戚付き合いも昔ほどではなくなりました。
地域コミュニティもほとんど消滅し、隣人の家族構成も分かりません。
そうなると、父性を感じ、父性を示す機会が失われるのも当然です。

(3)価値相対主義による虚無感の蔓延

現代は価値相対主義の時代です。
価値(真理・善悪・美醜等)に絶対的基準などなく、価値は各人の感覚による相対的なものとされています。

しかし、価値を相対化する、つまり人によって基準が違うことを良しとしてしまうと、それは価値について議論することはできないということになります。

例え議論しても「何が正しいか、正しくないかは人それぞれさ。アハハ。」となるのが関の山です。
当然、その行きつく先は虚無。
この世に絶対的な正しさなんてないと思っているのだから。

確かに人間は絶対的価値を知ることは不可能だと思います。
しかし、それは絶対的な価値が無いということではないはずです。

「人は絶対的な価値に辿り着くことは絶対ない」ことを知りつつ、価値について考えることを止めない。
これが虚無に落ち込まない唯一の方法と言っていいのかもしれません。

これを体現したのが哲学の父「ソクラテス」です。
しかし、現代人は価値に順列をつけることをを無理だと諦めてしまったのです。

それでは何故人は価値相対主義に落ち込んでしまったのか。
それは科学技術信仰による神殺しではないでしょうか。

かつて人々は人智を超えた存在を信じることが当たり前でした。
ところが現代人は科学を信奉し、科学で存在が証明できないものは無いものとされ、この世は神が創造したものではなく、ただの偶然の産物とみなすようになりました。

そういった世界観で生きていると、当然、虚しさに辿り着きます。
そんな虚無感漂う中で、父性を発揮して規範・ビジョン・理念を示したところで、そこに価値を感じるわけがありません。

上述した映画「エクソシスト」が暗示したとおり、現代は神が死に、父性が死んだ時代になったのです。

父性の復活を目指して

キリスト

社会に父性を復活させるにはどうすれば良いのでしょうか。
残念ながらその方法は無いでしょう。
何故ならば社会が父性を求めていないから。

父性が復活するときがくるとするならば、暴走した母性が社会を破壊し続け、時代が危機に瀕したとき。
そのときのために父性を残しておくべく、真に良識ある人は父性を隠し持ち、密かに伝承していかなければなりません。

ただし、社会が父性を必要としなくとも、各人の心中では父性への欲求は残るでしょう。
何故ならば、どんなに時代が進歩しても危機が無くなることはないからです。

生きるということは危機の連続です。
それは人は必ず死ぬからです。

「人は生まれてすぐ、死ぬに十分な歳をとっている」と言った哲学者がいましたが、確かに人はいつ死ぬのか誰も分からないまま生きているのです。

その人生の危機を乗り越えるには母性だけでは足りせん。
そういう意味では「父滅の刃」は現代を生きる全ての人が読むべき書だと思います。

是非皆さんも「父滅の刃」を読んで父性を復活させるヒントを掴み、人生という名の危機を乗り越えていきましょう。

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