自由とは何か? 自由と幸せ 自由に生きるための3つの方法
不自由さの中の自由
幸せに生きるためには「自由である」ことが不可欠です。
そもそも自由とはなんでしょう。
広義の意味では「強制・拘束・妨害などを受けないこと」となるでしょう。
確かにそれも自由かもしれませんが、ここでいう自由とは「幸せになるための自由」です。
幸せになるための自由は「束縛からの自由」から「束縛への自由」が第一歩となります。
「束縛への自由」とは「自分の意志で決断して生きる」ことに他なりません。
簡単な例でいうとスポーツがあります。
スポーツにはルールがあります。
ルールは自らが守るものです。
スポーツ選手は、ルールという名の束縛を自らの意志で守ることにより、そのスポーツを楽しみ、幸せを感じるのです。
学校のルール、会社のルール、人間関係のルールにおいても、それらを「自らの意志」で守ることにより、それぞれの秩序は保たれ、人々は自由を発揮できるのです。
幸せになるための自由は、不自由さの中にこそ存在するのです。
意志の無い人生は死んだ人生
「束縛への自由」は労力と努力と責任が伴います。
結婚がいい例です。
それまで自由に使えたお金や、遊ぶ時間も制限されます。
しかし、それを知っていても人は結婚します。
何故と言って、その結婚という名の不自由の中にこそ、幸せが潜んでいることを人々は知っているからです。
逆に自らの意志を持たず、親の言うこと、友達の言うこと、周囲の言うこと、マスコミの言うことを聞いて、流されて生きる方が楽かもしれません。
しかし、それは死んだ人生です。
生きていないのと同じなのです。
死んだ人生が幸せなわけがない。
運命を受け入れる
この世に生きる人間の全てが不自由の中に生まれます。
親も、時代も、国も、性別も、容姿も選べないまま、この世に生を受けます。
しかし、その運命という究極の不自由を自らの意志で選び取り、受け入れたとき、人は自由になるのです。
生きるということは常に逆説です。
自由に生きる3つの方法
①承認欲求を捨てて嫌われる勇気を持つ
承認欲求は人から自由を奪います。
承認されたい相手の意志の中で生きているからです。
一方、人から好かれたい、認められたいという思いを捨てるということは、その人から嫌われる可能性も出てきます。
しかし、嫌われる勇気をもたなければ、人は自由になれないのです。
人から嫌われたら、自由に生きている証拠だと思えばいいのです。
もし、これを読んでいるあなたが、誰からも嫌われていないとするならば、あなたはあなたの人生を生きていないのです。
②情報に流されない
インターネットがあらゆる人の生活に入り込み、以前では考えられないくらいに、人々は情報の洪水の中に生きています。
以前、「トイレットペーパーが無くなる!」というデマがネット上で流れ、日本中でトイレットペーパーを買うための行列ができました。
情報に流されず、自分の頭で考え、自分で調べれば、デマであることはすぐに分かりました。
ほとんどの人はデマであると知りつつ並んだのかもしれません。
もちろん私は買いに行きませんでした。
私が買うことにより、本当にトイレットペーパーを必要する人が買えなくなるからです。
しかし、ほとんどの人は皆が並ぶから自分も並ぶ。
自分の意志で行動できない不幸な人々のなれの果てが、あの行列だったのです。
情報を疑って自分の意志で決断して生きる。
情報リテラシーは、これからの時代を自由に生きるために絶対に必要なスキルです。
③欲望と自由を区別する
「自由に生きる」というと、寝たいだけ寝て、食べたいだけ食べるようなことをイメージする方もいるかもしれません。
しかし、そんなものは単なる欲望の奴隷です。
自分の意志で決断して生きるのが真の自由であるならば、欲望の奴隷として生きることは真の不自由です。
欲望の奴隷とならず、自分の意志で欲望に打ち勝ってこそ、真の自由な人生なのです。