映画「バケモノの子」あらすじと感想 男が男らしくて何が悪い!

アニメ映画「バケモノの子」は2012年公開。
細田守監督のオリジナル長編作品4作目。

【Story】

バケモノの子

両親が離婚した上、母親が交通事故で亡くなってしまった主人公の九太(きゅうた)。
父は現れず、母方の良家に引き取られそうになったところで九太は逃げ出す。

九太が一人で街をさまよっていると、バケモノが住む世界に迷い込んでしまう。
そこで九太は熊徹(くまてつ)という強者と出会い、弟子入りする。

熊徹はバケモノの町の次の宗師候補の一人。
もう一人の候補はイノシシの顔をした猪王山(いおうぜん)。
猪王山は品格高く、街の人々から信頼されていた。

猪王山は熊徹に「人間は心に闇を宿しているから、この世界に置いてはならぬ」と訴える。
ところが、実は猪王山も、人間界で捨てられていた赤ん坊の一郎彦(いちろうひこ)を拾い育てていた。

遂に熊徹と猪王山の宗師を決めるための決闘が行われる。
なんとか熊徹が勝利するも、激怒した一郎彦は、熊徹の背後から刀を刺し、熊徹は瀕死の重傷を負う。

そのまま一郎彦は心の闇を膨らませながら人間界に行き、暴走していく。
九太は一郎彦を止めるため、一郎彦に対決を挑んでいく。

 

【男らしさが否定される現代社会】

バケモノの子2

当初九太は、傲岸不遜で粗野な熊徹の弟子入りを拒んでいました。
ある日、町中で熊徹と猪王山がケンカになり、町中の人々が猪王山を応援するも、一人で戦う熊徹の姿に自分を重ね、弟子入りを決意します。

弟子入りしても、何かと言い争う熊徹と九太でしたが、九太は熊徹の日常の体の動きを徹底的に真似て強くなっていきます。

真似られて、まんざらでもない熊徹。
それを切っ掛けに、九太は本格的な修行に入っていきます。

「ああ成りたい!」と思わせたら、それはまさしく「父性」。
その父性への憧れの最も具体的な表現が「モデリング」。
つまり真似る。
そして父性の対象となった熊徹もまた「父になっていく」のでした。

熊徹が九太を雑に扱っていると、周囲の熊徹の仲間が「乱暴に扱うな!」と諭すと、熊徹は「乱暴で何が悪い!」と言い返します。

私には「男が男らしくて何が悪い!」と聞こえました。
現代は過剰な男女平等の世界。
「男らしく」「女らしく」なんて言葉を使うと、たちまち血祭りに上げられます。

しかし、そんなことでいいのか。
そんな疑問を細田監督は思っているはずです。

細田監督の「おおかみこどもの雨と雪」では、甘ったれだった雨(「あめ」という名のオオカミ男と人間の間に生まれた男の子)が、山の主であるキツネと出会い、男としての本能が目覚めていきます。

同じく細田監督の「サマーウォーズ」では、男たちが一丸となって暴走したAIに立ち向かっていきます。
細田監督は「男たちよ!立ち上がって戦え!」と言いたいのではないでしょうか。
そこに観ている人が共鳴するから、映画がヒットしているのではないでしょうか。
皆、現代社会の男の在り方に、どこか違和感を持っているのではないでしょうか。

【誰もが持つ心の闇】

バケモノの子3

本作品では、家族・父子の関係だけでなく、人間誰しもが持っている心の闇についても描いています。
自分がバケモノではなく、人間であることに劣等感を持ち続け、遂に爆発させてしまう一郎彦。
九太も自分を捨てた父に対する思いが心に残り続け、自分を見失いそうになりますが、直前で踏みとどまります。

しかし、一郎彦も九太も、自分自身と育ての親の力により心の穴は埋められていきます。
九太が青年になり、実の父親と再会し、当初は許せなかったものの、最終的には和解し、一緒に生活するようになります。

父に憧れ、父を真似、父とともに成長し、父と戦い、最後に父と和解する。
この映画は、父子の関係の一つの理想形を描いているようにも見えます。

【新海誠監督と細田守監督】

細田守監督は宮崎駿監督引退後の日本のアニメ界を担う人物。
もう一人いるとすれば新海誠監督。
昨年公開された「天気の子」は大ヒットといっていい興行収入だったようです。

「天気の子」を観た方は分かると思うが、家族、ましてや父性などというものは一切描かれていません。
主人公の男の子の生い立ちすら不明。

現代では、いかに家族が消え、父が消え、それによって子供たちがさまよっているかを訴えたかったのかもしれません。

ただ、家族・父性消滅という問題を正面から問題意識をもって映画として提起しているという点で、私は細田監督作品の方が好きです。

細田監督は現在52歳。
まだまだたくさん作品を作れる年齢。
楽しみです。

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