写真とは何か? 記録の力とスポーツとしての写真

前回、写真の「魅力」について書いた。
今回は、そもそも「写真とは何か」を考えてみたい。

【写真の力は記録の力】

写真の本質は「記録」である。
これは特にスナップ写真に当てはまるが、スタジオでのポートレートであろうと、室内でのテーブルフォトであろうと結局は記録なのだ。
日本を代表する写真家である森山大道氏は、「写真とは『光と時間の化石』」といった。
この言葉は、写真が決して 100%の創造的活動ではないことを意味している。

つまり、同じ長方形の紙でも、絵画と写真は違う。
絵画は無から有を作り出す行為であるが、写真は目の前にあるものをコピーしているにすぎない。

現代の写真家は「表現」という言葉をやたらと使うが、表現しているのは被写体であって、カメラマンが表現しているのではない。

カメラマンがやっている行為は「表現」ではなく「発見」なのだ。
そして、その「発見」こそが、写真の魅力なのだ。

写真とは発見し記録する行為。
これは個人的な解釈ではなく、事実である。

【写真と表現性】

写真は表現ではないと書いた。
しかし、実際は表現性をゼロにすることはできない。
それは、どこにレンズを向け、どのタイミングでシャッターを切るかは、それぞれのカメラマンの意志で決まるからだ。

そこに表現性が入り込んでいく。
これが写真をダメにする落とし穴。

写真を「個性(オリジナリティ)の表現」としてとらえると、写真の本質である「記録」から遠ざかってしまう。

入口から個性の発揮として写真を始めると「発見する」という意識が薄らいでしまう。
確かに、結果として、写真は個々のカメラマンの内面を投影していると思う。

ただし、あくまでも結果としてだ。
最初からオリジナリティを追い求めると、目の前の素晴らしい世界を見逃すことになるだろう。

【写真はスポーツだ!】

写真を撮るにあたり、表現性と決別するため、私は二つのことを意識している。
一つ目は写真をスポーツとしてとらえること。
二つ目は芸術をオリジナリティの発揮ととらえないこと。

それぞれ解説してみたい。

<写真はスポーツだ!>

学生のクラブ活動でいうと、写真は文化部に属するだろう。
しかし、実際はスポーツ系の運動部。
少なくとも私はそうとらえている。

ボクシングは両手を使う全身運動。
写真は目を使う全身運動。

実際、写真を撮るという行為は体力を使う。
特にスナップ写真の場合、全神経を目に集中させながら朝から晩まで街を歩き回る。

ボクシングが打撃力を鍛えるスポーツならば、写真は「発見力」を鍛えるスポーツ。
写真をやっていると「ものを見る力」が伸びていくのだ。

ところで写真をスポーツとしてとらえると、どうして表現性と決別できるのか。
それはプロ野球選手を見れば分かりやすい。

プロ野球選手の投球フォーム、バッティングフォームは千差万別。
野球の素人である私が見ても、非常に個性的で、オリジナリティあふれる投げ方、打ち方をする人はたくさんいる。

しかし、彼らは個性の表現として、そのフォームになったのだろうか。
そんなことはない。
個性の表現など1ミリも考えたことはないだろう。

ただひたすらに、どうしたら速く球を投げれるか、どうしたら打率を上げられるかを必死に考え、努力を重ねた結果、独特のフォームになっていく。

写真だって同じだ。
どうしたら、世界に隠れた美しく、ときに不思議な光と影を発見できるのかと考えに考え、歩きに歩き、ものを見続ける。
その結果、各カメラマンの内面が写真の中に出始めていく。

<芸術≠オリジナリティ>

私は写真は芸術になりうると思っている。
ただし、私は自分自身のことを芸術家だとは思っているわけではない。

私が撮ってきた写真の中に、芸術性が含まれるものがある「かも」しれないといったところ。

「表現性との決別を言っておきながら、何故、写真は芸術になるのか?」と疑問に思う方もいると思う。

この疑問は、疑問に思う方の芸術に対する定義が私と違うから発生する。
現代では、芸術=オリジナリティということになってしまった。

私にとっては、「この世界とは何か?人間の本質とは何か?現代という時代は何か?」という哲学的な疑問に対する表現の一つが芸術。

ある人は彫刻で、ある人は文学で、ある人は音楽で世界の驚くべき不思議に応えていく。
これが私の、というより、本来の芸術だったはずである。

人類美術史上、最高の傑作といえばミケランジェロのダビデ像と言われている。
しかし、ミケランジェロはオリジナリティの表現としてダビデ像を掘ったわけではない。

少なくとも、ミケランジェロのダビデは、自分の意志でなく、フィレンツェ大聖堂造営局からの依頼で製作が始まっている。

依頼によって作り始めたからといって、ミケランジェロのダビデの芸術性は、いささかも失われることはない。

写真の本質は記録であるが、その記録に、世界の、人間の、時代の本質が垣間見えることがあるならば、それは芸術といっていいのではないか。

そうなると、写真の最高峰は報道写真なのかもしれない。
少なくとも報道カメラマンの精神で、表現性を排し、時代を撮り続け、発表していきたい。

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