映画「時には懺悔を」感想・考察|原作との違いとタイトルに込められた意味【ネタバレ】
新作映画「時には懺悔を」を鑑賞した。
西島秀俊と満島ひかりがW主演を務め、監督は中島哲也。
原作は打海文三が1994年9月に発表した同名小説である。打海自身が障がいのある息子を育てた経験をもとに書いた作品だという。
今回も事前に原作小説を読んでから映画を鑑賞した。
本作は、殺された探偵の死の真相を探偵が追うミステリーである。
しかし、単なる犯人探しの物語ではない。「親子とは何か」「愛とは何か」、そして人が抱える罪や後悔を描いた、非常に重い作品だった。
映画版には原作から大胆な改変もあった。しかし個人的には、その多くが成功していたと感じる。
原作小説も涙を誘う作品だったが、映画版ではさらに泣かされた。
以下、ネタバレを含めて感想と考察を書いていきたい。
<ネタバレあらすじ>
主人公の探偵・佐竹は、探偵見習いの女性・聡子とともに、殺された探偵・米本の事件を調べることになる。
米本は殺される直前、ある女性から人探しを依頼されていた。
その女性は、偶然ニュースに映った父子の映像を録画したビデオテープを米本に渡していた。
佐竹と聡子は、その映像を手掛かりに、ビデオに映っていた明野哲夫と、明野が育てている重い障がいのある少年・新(しん)を探し出す。
佐竹は明野のアパートに盗聴器を仕掛け、彼の日常を調べ始める。
明野は、会話がほとんどできないほど重い障がいを抱える新を、ひたすら育て続けていた。
そんな明野の前に、ある女性が姿を現す。
その女性こそ、米本に人探しを依頼した民恵であり、新の本当の母親だった。
新が生まれたばかりの頃、子供のいなかった明野夫婦は病院から新を連れ去り、そのまま逃亡する。
一方、子供を奪われた民恵は、なぜかすぐには病院にも夫にも警察にも連絡しなかった。
民恵の心のどこかには、新が戻ってきてほしくないという気持ちがあったのだ。
その後、新に障がいがあることを知った明野は、民恵に子供を返すどころか身代金を要求する。
身代金の受け渡しは失敗に終わるものの、明野の妻・昌美は新を懸命に育て始める。
昌美の献身的な愛情によって、新は少しずつ成長していく。
しかし、ある日、昌美は交通事故で亡くなってしまう。
それまで新の子育てに非協力的だった明野は、突然、新を一人で育てることになる。
ところが明野は、いつしか昌美の気持ちが自分に乗り移ったかのように、新に献身的な愛情を注ぐようになっていた。
この事実を知った佐竹たちは、米本が明野の誘拐という過去を利用して金をゆすり、逆上した明野が米本を殺害したのではないかと考える。
しかし、真相は違った。
米本を殺した犯人は、米本の中学生の息子だった。
米本は明野をゆすっていたのではない。むしろ明野に自首を促し、民恵には新を引き取るべきだと説得していたのだった。
民恵に新を引き取らせることに迷う佐竹。
しかし聡子は粘り強く民恵を説得する。
そして明野は自首し、新は民恵のもとで育てられることになっていく。
<原作との違い>
映画版も大筋では原作小説と同じ物語である。
時代設定も原作に合わせて1990年代となっており、スマートフォンやインターネットが登場することはない。
ただし、細かな設定には大きな変更が加えられている。
特に印象に残った違いを3点挙げたい。
①佐竹の過去
映画版における佐竹は、高校生くらいの娘がいる一方、障がいを抱えた息子を幼くして亡くしている。
しかし原作小説の佐竹には、健常の息子が一人いるだけである。
映画版の佐竹は、障がいのある息子の育児をほとんどしなかった。
そのことが原因の一つとなって家族は崩壊し、佐竹自身も深い後悔を抱えている。
そして、その後悔から逃げるように、アルコールに溺れる生活を送っている。
一方、原作小説の佐竹にも息子との関係が良好ではないという描写はあるものの、映画ほど家族が崩壊しているわけではない。
そのため、原作の佐竹はアルコール依存症のような人物でもない。
原作の佐竹は、米本が探偵の仕事に関係する人物によって殺されたのではないかと考える。
そして、自分もいつか米本と同じような死に方をするのではないかという不安から、事件の真相を調べ始める。
しかし最終的に、米本を殺したのは仕事上の関係者ではなく、彼の息子だったことが分かる。
そのとき佐竹は、自分もいつか息子に殺されるのではないかと感じ、物語の終盤には、佐竹が息子との関係を修復しようとする描写もある。
そう考えると、映画版でも佐竹の子供は娘ではなく、息子の方がよかったのではないかという気もする。
また、柴咲コウが演じた映画版の佐竹の妻は「由紀」という名前だが、原作小説における由紀は、佐竹の高校時代のクラスメイトである。
実は映画版における佐竹の家族設定は、原作の由紀の家族設定を大きく取り込んだものになっている。
もっとも、原作の由紀の夫は、映画版の佐竹ほど育児を放棄した人物ではない。
この佐竹の家族設定こそ、映画版における最大の改変だろう。
私は、この改変は成功していたと思う。
佐竹自身にも「障がいのある子供から逃げた過去」を与えることで、彼は単なる事件の傍観者ではなくなった。
明野や民恵を裁く立場にありながら、佐竹自身もまた、同じように過去から逃げてきた人間なのである。
この設定によって、原作が持っていたテーマとメッセージは、より深くなったように感じた。
②佐竹と聡子の関係
佐竹の過去が大きく変更されたことに伴い、佐竹と聡子の関係も原作と映画ではかなり異なっている。
映画版の佐竹は非常に自暴自棄で、聡子に対しても冷たい。
一方、原作の佐竹は映画ほど荒んだ人物ではない。
無頼な探偵として長年仕事をしてきたため、聡子のような新人を疎ましく思っている部分はある。
その一方で、聡子の真っすぐで熱い性格に佐竹は惹かれていく。
二人が一夜を共にしそうになる場面もある。
もっとも、映画版のようなキスシーンはない。
ちなみに原作の聡子は、実務経験がわずか数か月しかないにもかかわらず、探偵事務所を開業する。
それを知った佐竹は、彼女のことを「大胆を超えて破廉恥だ」と感じる。
しかし、同時に、その破廉恥なところが好きなのだとも感じている。
このあたりは、原作の佐竹と聡子の関係を象徴する描写だろう。
映画では、事件解決後、佐竹と聡子は会っていないというセリフがある。
しかし原作では、聡子から佐竹に宛てた手紙で物語が終わる。
その手紙には、聡子と民恵たちの家族が海に行くので、佐竹も一緒に来ないかという誘いが書かれている。
映画版と原作では、二人の関係の余韻も大きく異なっている。
③昌美の「子育てメモ」
映画版で最も感動的な改変の一つが、明野の妻・昌美が残した「子育てメモ」だと思う。
映画の後半、昌美が新を育てるために、大量のメモを残していたことが分かる。
このメモがあったからこそ、昌美の死後、明野は新を育て続けることができた。
そして最終的には、新を引き取る民恵にも、その知識を引き継ぐことができた。
一方、原作小説には昌美のメモの描写はない。
原作では、明野が自首する前に民恵と直接会い、新の子育てに関する注意点を伝えていく。
つまり、この「子育てメモ」は映画オリジナルの設定である。
しかし、この改変は本当に素晴らしかった。
昌美のメモは、新への愛情の結晶だ。
そして昌美の死後、明野はそのメモをさらに書き足し、アップデートしていく。
これもまた、明野が新に注いできた愛情の証である。
なぜ明野と昌美は新を愛することができたのか
そもそも、明野も昌美も新の実の親ではない。
しかも、新は重い障がいを抱えている。
それでも、なぜ二人は新にこれほど深い愛情を注ぐことができたのだろうか。
私は、二人が新から力をもらっていたからではないかと思う。
映画の中で、新が病院にいると、周囲の人々は「頑張ってね」と声をかける。
佐竹が、
「みんな新を励ましているようですね」
と言うと、明野はこう答える。
「逆だよ。みんなが新に励まされているんだ。」
このセリフが、本作の重要なテーマを象徴しているように思えた。
原作小説には、障がいのある子供を「神様」と表現する場面が2度ある。
何か特別なことができなくてもいい。
何もしなくても、人はそこにいるだけで誰かを元気にすることができる。
誰かを癒やすことができる。
それは、まさに「神の力」と言ってもいいのかもしれない。
かつて神奈川県相模原市の障害者施設で、19人もの命が奪われる痛ましい事件があった。
犯人は、障がいがあり会話ができず、心がないのだから、彼らは人間ではなく無駄な存在だという趣旨の考えを述べていた。
さらに裁判では、人間ではないものを殺したのだから殺人には当たらないという趣旨の主張までした。
もちろん、とんでもない考え方である。
人は、何かができるから価値があるのではない。
何もしなくても、何もできなくても、誰かを癒やし、誰かに力を与えることができる。
本作は、そんな当たり前でありながら、時として忘れてしまいがちな事実を改めて思い出させてくれた。
原作者の打海文三自身にも障がいのある息子がいたという。
きっと打海さんも息子に励まされて生きていたに違いない。
だからこそ、この作品からは単なるきれいごとではない、実体験に裏打ちされた強いメッセージを感じる。
<タイトル「時には懺悔を」に込められた意味>
「時には懺悔を」というタイトルには、どのような意味が込められているのだろうか。
思えば、本作に登場する主要人物たちは、皆それぞれ後悔を抱えて生きている。
佐竹もそうだ。
民恵もそうだ。
明野もそうである。
彼らだけではない。
この映画を観ている私たち自身も、直視したくない過去を持っている。
人は皆、法律だけでは裁き切れない「心の罪」を抱えて生きているのではないだろうか。
完全に無罪の人間などいない。
もちろん、過去の過ちにとらわれ続けていては生きていけない。
しかし、「時には」立ち止まり、自分がこれまでしてきたことを見つめ直す必要もある。
だからこそ、「時には懺悔を」というタイトルは、事件を追う佐竹や聡子だけに向けられた言葉ではない。
映画を観ている観客自身に向けられた言葉でもあるように感じた。
あなたは本当に、明野や昌美を単純に断罪できるのか?
彼らが犯した罪だけを見て、あなたは彼らを悪人だと言い切ることができるのか?
本作は「親子の愛」を描いた感動作である。
その一方で、観終わった後には、どこか罪悪感のようなものを残す怖い物語でもあった。
<アカデミー賞候補!?>
冒頭にも書いたとおり、本作は原作を非常にうまく映画向けに改変し、2時間の作品としてまとめ上げている。
主演の西島秀俊と満島ひかりの演技も素晴らしかった。
脇役陣も非常に印象的だった。
特に、明野を演じた宮藤官九郎が素晴らしい。
単純な善人でも悪人でもない、人間の弱さと愛情が同居していた明野を完璧に演じていた。
また、普段のイメージとは異なる、抑えた演技を見せた佐藤二朗も見どころの一つだと思う。
個人的には、年明けの映画賞レースに絡んできても不思議ではない作品だと感じた。
夏に公開される大衆向けエンターテインメント作品に少し食傷気味の人には、特におすすめしたい。
ミステリーとして物語を追いながら、親子の愛について考え、最後には自分自身の人生まで振り返らされる。
そんな重く、そして温かい映画だった。
ぜひ映画館で観てほしい作品である。