映画「90メートル」感想|なぜここまで泣けるのか?“描かない演出”を考察
新作映画「90メートル」を公開から一週遅れで鑑賞。
本作は不治の病にかかってしまった母を持つ男子高校生の物語。
当初、本作を感動ポルノ系映画だと思って観るつもりはなかった。
結果、大号泣。
中盤あたりから涙が止まらない。
これは普段映画を観ない人にも自信をもって勧められる作品だ。
監督は中川俊。
1987年生まれで、映画監督としては若い。
中川監督の前作『 か「」く「」し「」ご「」と「 』(令和7年公開)は観ているのだが、さほど刺さらなかった。
このことも本作を公開初週で観なかった要因の一つ。
私は『 か「」く「」し「」ご「」と「 』を観る前に原作小説を読んでいたのだが、今思うと映画がイマイチだったのは、そもそも原作小説との相性が自分には合わなかったからだ。
今回の「90メートル」は中川監督のオリジナル脚本で、半自伝的なストーリーとのこと。
キャストは山時聡真(さんときそうま)と菅野美穂のダブル主演。
母の看病のためバスケ部を辞めた高校生「藤村佑(ふじむらたすく)」を山時聡真、その母を菅野美穂が演じる。
上述したとおり、本作は大号泣の感動作品。
これは単に悲話であるからではなく、中川監督の脚本と演出力によるもの。
今回は『映画「90メートル」は何故感動するのか』を考えてみたい。
① セリフとBGMの削ぎ落とし
説明過多な邦画が多い中で、今作のセリフの少なさは逆に各キャラクターの心情を雄弁に表現していた。
本作では愛憎半ばの感情を持った人物が多く登場する。
息子の母に対する感情。
母の息子に対する感情。
バスケ部員の佑への感情。
これらは「好き」と「嫌い」のどちらでもない。
現実の人間関係も同じ。
完全に好きになることもない。
完全に嫌いになることもない。
ほとんどが「愛憎半ば」で止まっている。
この微妙な感情を表現するためにはセリフと分かりやすい芝居をそぎ落とす必要があったのだろう。
また、BGMに頼らず、生活音や表情だけで感情を繋いでいく演出は、観客が自らの感情をスクリーンに投影する「余白」を生んでいた。
多くの観客が深く感情移入できたのも、その余白があったからなのだろう。
これは単なる演出ではなく、「観客に委ねる覚悟」が必要。
そういう意味では中川監督は勇気のある監督といっていいだろう。
普通の商業映画は、セリフやBGMで感情を“誘導”するが、この作品はそれをほぼ放棄している。
だからこそ、観る側が自分の体験を無意識に重ねてしまう。
結果として、「自分の物語のように感じてしまう」。
そして号泣に至る。
② 描かないという選択
・母親の死の瞬間を描かない
・恋愛を最後まで描かない
これはどちらも「カタルシスをあえて与えない」構造。
普通なら泣かせるために描く部分を切り落としている。
その結果、観客の中で感情が“未解決のまま残る”。
この“残り方”が強い余韻=映画的興趣になっている。
母親の死に際を描いて「お母さん死なないで」とか、「佑!東京に行かないで!」なんて言われたら興覚めもいいところである。
③ インディーズ作品であること
本作の配給はクロックワークスというインディペンデント会社。
インディーズ作品は「売るための最適化」よりも「表現したい核」が優先される。あるいは優先してもらえる。
そのため、説明不足や余白が意図的に残され、余韻が残る作品になりやすい。
この余白こそ、テレビドラマではできない映画的な興趣。
多くの観客が感じた“映画的趣き”は、実はこの(良い意味での)「不親切さ」から来ている。
この脚本を東宝・松竹・東映というメジャー会社の配給の下で制作していたら、同じ形にはなりにくかったと思われる。
以上の3つが私の考える感動の要因。
とにかく「今年一番泣ける映画」は間違いないだろう。
ちなみにタイトルの「90メートル」の意味は映画の最後の最後で分かる。
「90メートル」の意味が分かる瞬間に涙のダムが決壊。
未鑑賞の方は、なぜタイトルが「90メートル」なのか映画館で本作を観て知って欲しい。