【ネタバレ】「君が最後に遺した歌」レビュー|感動しない理由と原作との違いを辛口解説

映画「君が最後に遺した歌」を公開初日に鑑賞。

本作は詩の才能を持つ高校生の水嶋春人と春人のクラスメイトで文字の読み書きが困難な「発達性ディスレクシア」を抱えながらも作曲と類いまれなる歌の才能を持つ遠坂綾音の恋愛物語。

一条岬が書いた同名の小説が原作。
例のごとく私は原作小説を読んでから映画を鑑賞。

原作小説も映画も私の嫌いな要素満載の作品だった。

嫌いな要素の一つ目はグズグズ系。

根暗な春人が「僕なんかが告白しても迷惑かけるだけだから・・・」的な感じで、いつまでも告白しないでグズグズグズグズ物語が進んでいく。

あー、気持ちわり。

二つ目の嫌い要素が「不治の病」。
最終的に大恋愛の末に春人と綾音は結ばれるのだが、綾音は不治の病で死んでいく。

よくもまぁ、こんな筋書きの話を図々しく恥ずかしくもなく書けるもんだなぁと呆れる。

「不治の病」を安易に使うことに対して、良心の呵責みたいなものを感じないのだろうか。

私のように映画をたくさん観ていると広い意味での作家(小説家や脚本家)という職業は繊細さよりも鈍感力が求められるってことがつくづくよくわかる。

映画業界では売れっ子の脚本家である野木亜紀子や、坂元裕二なんかが書いた脚本も私から言わせたらメチャクチャだと思っている。

でも鈍感力があるからこそ、劇的な物語を書くことができる。
緻密に繊細に物語を作ろうとしたら物語の世界や展開を小さくせざるを得なくなる。

だからやっぱり物語を作る人間ってのは厚顔無恥な人の方が合っているのだ。

ただ、私のような人間からすると一切感動しないし、涙よりもため息しか出ない…。

簡単にいうと、本作はとても人に勧められないどうでもいい作品。
しかし、時間をかけて小説を読んだので、原作と映画の主な3つの違いを紹介する。

①物語の構成と娘(春歌)の年齢

映画では春人と綾音が高校で出会うシーンから始まる。

原作では春人と春人の「最愛の彼女」が車でライブ会場に向かうところからスタートする。
その車内で彼女が春人に綾音との出会いを質問し、それに答える形で物語が語られていく。

(ちなみに小説は全編にわたって春人の一人称視点(モノローグ)となっている。)

原作小説では、この「最愛の彼女」が何者かは分からないまま進み、後半で春人と綾音の娘の「春歌」であることが分かる。

小説の春歌は高校を卒業したばかりという設定。
(映画版の春歌は小学生。)

春歌は母である綾音と同じく歌唱力があり、最終的には歌手デビューし、テレビ番組で春人と綾音が最後に作った歌を歌っているところで小説版は終わる。

②綾音の病気の発覚経緯と死亡時期

映画版での綾音は春歌を産んで、娘が3歳くらいになってから病気が発覚していた。

小説では妊娠検査の時に病気が分かり、病気で体力が落ちる中で出産。
その後、春歌が1歳なった数日後に綾音は死亡する。

これに関連して、映画のラスト付近のシーンである部活部屋での黒板のシーンは原作小説ではない。

私は「不治の病なんか物語を展開する装置として使うなよ」という思いがあるので、小説版の「最愛の彼女」というのは記憶を失った綾音なのではないかと予想していたのだが(これもベタだけど)、まさかの「不治の病」…。

今後、「不治の病」を安易に使う映画を何本観させられるのだろう。。。

③春人の書いた詩の内容

映画では春人がコンクールに出す詩を先生が読み上げたり、春人が作詞した歌を綾音が歌うシーンがあるが、小説では一切春人の詩は出てこない。

小説を読んで春人の詩は、どんな内容か知りたい人は映画版を観るといいかもしれない。

その他にも多くの省略や改変は多数あるが、大きな違いは上記の三つ。
メンヘラチックな物語が好きな方はどうぞ。

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