映画「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」ネタバレ:前作との違いと賛否両論の理由を徹底考察!興行収入低迷の真相に迫る
映画「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」を公開初日に鑑賞。
既に公開済みのアメリカでは賛否が分かれ、興行収入も低いという。
鑑賞して賛否が分かれ、興行収入が低い理由が分かった。
前作は ホアキン・フェニックスが演じるアーサーがジョーカーになるまでを描いていたが、今回はジョーカーがアーサーに戻るまでを描いている。
つまり、本作に前作の魅惑的なヴィラン「ジョーカー」を期待した観客には、全く納得できない作品となっている。
とにかく「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」は、前作と完全につながっている物語で、前作を観ないと分からない形になっている。
前作の凄いところは究極の悪を見せたところ。
究極の悪とは超価値相対主義のこと。
価値相対主義とは、価値は各人の感情、意欲、信念に依存する相対的なものであると主張すること。
つまり価値相対主義者にとっては各人に共通する絶対的な価値はない。
殺人を正義と思えば正義。
悲劇の人生を喜劇と思えば喜劇。
「何に価値があるのかは人それぞれ」とするのが価値相対主義。
前作の映画内でのジョーカーの「喜劇なんて主観だ」というセリフは、この映画を最も象徴していると言っていいだろう。
前作は映画全体も相対化され、ラストでフランク・シナトラ「That’s Life」が流れた後に一度コメディ映画のフォントである「The End」が表示され、悲劇の物語を喜劇映画として終わらせている。
そして価値相対主義は必ず虚無主義にたどり着く。
なぜかと言って、価値相対主義者にとってみれば、この世に不変の価値などないのだから、虚しさに到達するほかないのだから。
超がつくほど価値を相対化させ、虚無に陥ると人間はどうなるのか。
無敵になるのである。
その無敵の人の具象化がジョーカー。
この無敵のジョーカーがデマゴーグ(煽動的民衆指導者)となって世界(ゴッサムシティ)を価値相対主義の混乱に扇動する。
「無敵の人」は格差が過剰に拡大し、弱者が不当に虐げられたときに出現する。
そして無敵の人は普遍的正義を相対化させてジョークになり下げる。
これが前作のジョーカー。
今回の「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」の監督と脚本は、前作と同じトッド・フィリップス。
トッド監督としては魅惑的に描きすぎてしまった前作のジョーカーに決着をつけたかったのだと思う。
映画内のゴッサムシティの市民たちはジョーカーをヒーロー扱いするが、映画を飛び越えて現実の人々もジョーカーに魅了されて同じような犯罪を犯す者が世界中に現れてしまった。
このような状況の中、トッド監督としては人間は完全に価値を相対化することはできないし、価値を相対化したところで幸せになんかなれない、つまり前作のジョーカーは幻なんだということを訴えたかったのだと思う。
だからこそ、今回のジョーカーはみじめで、かっこ悪く、無様に死んでいく。
しかし、私はジョーカーはアーサーに戻り、最後の最後で救われたと解釈したい。
そしてジョーカーがアーサーに戻る切っ掛けが、ジョーカーの恋心であったところも見逃せない。
虚無に至り、無敵の人と化し、生きることすら相対化していたジョーカーが恋に落ちて、生に価値を見出していく。
生きたい。
そう思った瞬間にジョーカーはジョーカーでなくなり、悪のパワーが消えていくが、それでいい。それがいい。
そうトッド監督は訴えているのだ!と勝手に解釈したい。
前作でジョーカーに魅了されてしまった人は、是非、本作を観てトッド監督と同じくジョーカーというキャラクターに決着をつけて欲しい。