『悪は存在しない』レビュー:ネタバレあり!映画の意味とラストの解釈は?

公開中の映画「悪は存在しない」を鑑賞。
東京では先週の4月26日から公開。

ただし、東京では渋谷と下北沢のミニシアター2館だけの公開。
その他の地域は5月3日からの公開が多いが、どの地域も大手会社のシネコンでの上映は一切なく、ミニシアターのみ。

私が住む鹿児島では、「ガーデンズシネマ」という39席しかない小さな映画館で公開された。
しかも、1日1回上映。

私は公開から2日目に本作を鑑賞したが、予想通り満席。
それもそのはず、本作は第80回ヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞を獲得した注目作。

監督は「ドライブ・マイ・カー」の濱口竜介。
「ドライブ・マイ・カー」は、その年の各賞を総なめにした傑作。

そんな濱口監督がミニシアター用に低予算で作った作品が「悪は存在しない」。
なにせ東京でも2館でしか観れないのだから凄い。
どの地域のミニシアターも、毎回、満員だろう。

本作の製作経緯は、「ドライブ・マイ・カー」で音楽を担当したシンガーソングライターの石橋英子からライブで流すサイレント映像の製作を依頼され、それを切っ掛けとして「悪は存在しない」を撮ったとのこと。

「悪は存在しない」では、低予算だからなのか、監督のこだわりなのか、有名俳優は一人も出演していない。

それでも「映画ファン」にとっては、かなり満足度の高い作品に仕上がっていた。
逆にいうと、映画ファンでない一般の人が観たら、全く訳の分からない作品として受け止めることだろう。

それほど映画のラストが衝撃的なほどに中途半端に終わっている。
観た人の数だけ解釈が分かれるようになっており、そこが本作の良さでもあり、批判されるだろうポイントでもある。

「映画は監督のものではなく、観た人のもの」という言葉を信じ、監督の意図を超えた私なりの「悪は存在しない」の解釈をしてみたい。

その前に粗々のあらすじは次のとおり。

<粗々あらすじ>

長野県の田舎町に東京の芸能事務所がグランピング場を作る計画を立てる。
町の会議室で説明会が行われるが、水源が汚染されるとして住民は大反対。

また、夜間にもグランピング場の管理人を常駐させるべきとの意見があがった。

説明を行った芸能事務所の二人「高橋」と「黛」は、東京の事務所に戻り、住民の意見から計画を中止すべきではないかと進言する。

しかし、土地は購入済みで、しかも国からの補助金を得るため、早期に着工しなければならないため、計画が中止されることはなかった。

高橋と黛は町のリーダー的存在である「巧(たくみ)」を管理人にするよう指示を受ける。

高橋と黛は再び街に戻ることとなる。
車内で二人は会社の方針に嫌気がさし、高橋は自分自身が管理人になろうと言い出す。

二人が街に着き、巧みに管理人になって欲しいと依頼するも断られる。
管理人がダメならば、アドバイザーになって町のことをもっと教えて欲しいと二人は巧に懇願する。

巧は二人を町の蕎麦屋に連れていき、一緒に食事をする。
その蕎麦は町にある澄んだ湧水を使って作っていた。

食事後、蕎麦屋の湧水が足りなくなったことを知った巧は、湧水を高橋と黛とともに水を汲みに行く。

その道中、黛は手に怪我を負ってしまったため、巧の自宅で治療をしてもらう。

巧には「花」という娘がおり、高橋と黛を自宅に残し、巧は花を迎えに行く。
しかし、花は一人で遊びに行ったきり、行方不明となっていた。

町中の人とともに花の捜索が始まる。
遂に巧と高橋は花を見つける。

花の横には猟銃で撃たれた手負いの鹿が2匹いた。
鹿の傍で横たわる花。

それを見た巧は高橋を締め落とし、花を抱いて山中を走る・・・。

<ネタバレここまで>

本作を観て最初に思ったのが是枝裕和監督の「怪物」。

「怪物」では、「怪物だーれだ」というキャッチコピーに沿って、次々と怪物らしき人が登場するも、物語が進むにつれて怪物である裏付けがないことが分かっていき、遂には怪物探しをしている観客こそが怪物なのではないかと思わせる構造になっていた。

「悪は存在しない」において、当初の説明会のシーンで観客は住民側に感情移入するが、その後、説明した高橋と黛の本音を聞くと、今度は高橋と黛の立場にも同情するようになる。

また、グランピング場建設を環境破壊だとして反対している住民自体も、土地を開拓し、鹿を殺している破壊者であると思わせられる。

観客の各キャラクターへの思いが変化していくという意味で「怪物」と「悪は存在しない」は共通していると感じた。

「怪物」と「悪は存在しない」も、悪とは各人それぞれの立場から見る相対的なものであると訴えていると考えられ、そういう意味で「悪は存在しない」というタイトルは、「絶対的な」悪は存在しなという意味にも取れるかもしれない。

濱口監督はインタビューの中で、人間のいない自然の中で撮影するうちに、自然の中に明確な悪意は存在しないことを感じ、「悪は存在しない」というタイトルにしたという。

「人間のいない自然」に悪はないとすると、悪は人間にあるということになる。

しかし、人間も地球に生きる生物なのだから、自然の一つなはずであり、不自然だったり、非自然な存在ではないはずだ。

人間が自然の一部だとすると、人間が行う戦争、殺人、環境破壊も自然な行為ということになる。

人間以外の動物には必ず天敵がいて、そのことにより生態系が保たれているように、人間は人間が天敵となり、人間自身を苦しめることにより、世界は調和しているとも言える。

この考えは人間的な視点を超えた宇宙的な視点。
宇宙的な視点からしたら、人間が行う破壊的行為も自然であり、「悪は存在しない」ということになる。

これは「悪は存在しない」という命題が正しいと仮定した場合の私の勝手な解釈。

濱口監督からしたら、行き過ぎた解釈になると思われるが、映画は監督のものではなくて、観客のものと開き直るしかない。

とにかく様々なことを考えさせられる懐の深い作品であることは間違いない。

特にラストで巧が何故に高橋を締め落としたのかを考えるのは実に楽しい。
恐らくは監督自身も明確な答えを持っていないのかもしれない。

巧は娘を病院という人工的な場所に連れていきたくないと思い、鹿が死んだときのように、自然に返したかったのか。

あるいは環境破壊反対を訴えていたにも関わらず、鹿に猟銃を向け、その鹿に娘を殺されたということに強い負い目を感じ、娘を連れて逃げたかったのか。

それとも娘を死なせてしまった責任を感じて自殺に向かったのか。

この謎めいたラストは色々と議論ができるし、他の人の意見を聞いてみたくなるところである。

観終わった後に、観た人同士で色々語り合うことができるのは映画鑑賞の醍醐味の一つ。
是非、濱口監督には、これからも結論のない作品を作り続けて欲しいと思う。

濱口監督はインタビューの中で、今の映画化は規模の大きな映画と規模の小さな自主映画と二極化している傾向があるが、両者の良さを合わせた中間的な作品を作りたいとおっしゃっていた。

多くの映画ファンも濱口監督がおっしゃったような娯楽性と作家性の絶妙なバランスが取れた作品を観たい。

次回の濱口監督作品に大いに期待して首を長くして待つことにしよう。

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