映画「月」レビュー:衝撃的なネタバレと障害者施設事件の影響を考察

映画「月」を鑑賞。
主演は宮沢りえ。

辺見庸が書いた同名小説が原作。
本作品は、2016年(平成28年)神奈川県相模原市で起きた大量殺人事件を題材にしている。(通称「相模原障害者施設殺傷事件」)

相模原で起きた実際の事件の殺害人数は19人。
この数は戦後の日本で発生した殺人事件としては最も多い。

この事件を扱っていることからも分かるように、重い重い映画。
こんなに重い映画を観たのは「ダンサー・イン・ザ・ダーク」以来かもしれない。

映画のあらすじは次のとおり。(ネタバレあり)

「元」小説家の堂島洋子(宮沢りえ)は、無職の夫の昌平(オダギリジョー)と質素に暮らしていた。

堂島夫婦には過去に子供がいたが、その子は生まれて直ぐに心臓の手術を受けた結果、脳に障害が発生し、一言も言葉を発することなく3歳で亡くなっていた。

このことを契機に洋子は小説が書けなくなり、また、正平は気力をなくし、仕事もせず、部屋で人形を使った短編映画を作っていた。

そんな中、洋子は重度障害者施設で新しく働き始める。
施設は町からはなれた森の中にあった。
それは不都合な真実を覆い隠すようでもあった。

施設に暮らす障害者のほとんどは会話をすることができず、職員から暴行を受けたり、閉じ込められたりしていた。

徐々に施設の内情が分かっていく洋子は、小説家志望の坪内(二階堂ふみ)と気のやさしいサトくん(磯村勇斗)と交流を深めていく。

坪内は小説の才能がないことに苦しみ、酔っぱらって、洋子の小説に対し、真実が書かれていないと批判する。

一方、サトくんは会話ができない障害者に紙芝居を作るなど、精一杯仕事に打ち込んでいた。

そんなサトくんであったが、会話ができない障害者と接していくうちに段々と精神が不安定になっていく。

一方、洋子は妊娠。
40代で子供を産むリスクに悩む。
障害を負った子供が生まれるのではないかと苦しむ。

ある日、サトくんの様子がおかしいことに気づいた洋子は、施設でサトくんに何を考えているのか尋ねる。

するとサトくんは障害者を皆殺しにすると告白。
障害者は会話ができず、心がないのだから、人間ではなく無駄な存在であるというのがサトくんの主張であった。

そしてこの考えは、障害を持って生まれる子供なら堕胎した方がいいと考えている洋子と同じ思想だと詰め寄る。

後日、サトくんは犯行予告の手紙を議員に送り付けたことにより警察に捕まり、精神病院へ送られる。

しかし、数週間後、病院を退院したサトくんは、深夜に施設に忍び込み、次々と障害者を殺していく。

その頃、昌平が作った短編映画がフランスの小さな映画祭で認められ、受賞の知らせが届く。

洋子と昌平は受賞を祝うとともに子供を産む決意をする。
しかし、テレビにはサトくんのニュースが流れ、そこで映画は終わる。

サトくんのいうとおり、会話ができない障害者は意味のない存在なのか。
もちろんそんなことはない。

サトくんに子供を殺された母親が泣きじゃくるシーンがあるが、何もできなくても存在するだけで他人に力を与えることだってあるのだ。

ただし、重度障害者施設を街から遠ざけ、まるで障害者がいないかのような社会にし、その施設を低賃金で維持している現実も変える必要があると、この映画は訴えてくる。

そして堕胎を認めている我々に対し、「あなたはサトくんを説得する言葉を持っているか?」と観客に問いかけてくる。

ちなみにサトくんの主張は実際に相模原の障害施設で連続殺人を行った植松 聖(うえまつ さとし)の主張でもある。

植松も裁判において、人間ではないものを殺したのだから殺人には当たらないと主張していた。

この世に神がいるのなら、何故障害を持った人が生まれてくるのか。
罪を犯した者が罰せられるのは分かるが、先天的な障害は罪もない人が、生まれた瞬間に罰せられているのと同じではないか。

もちろんこの考えは、善人は報われ、悪人は地獄に落ちるという機械仕掛けの神様を我々が望んでいるからに過ぎない。

神の真意は分からない。
それでもこの理不尽極まりない世界を希望をもって泳ぎ切っていくしかない。

様々なことを考えさせる本作品。
今年の日本アカデミーは、是枝監督の「怪物」だろうと思っていたところ、本作品「月」が受賞する可能性も出てきた。
すくなくともノミネートされることは間違いない。

人間の存在意義を改めて考えてみたい方は、是非ご鑑賞あれ。

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